日新館
横手の大工が創意と技を結集した貴重な明治の洋館
その洋館は、横手市街を見渡せる高台の上にある。門をくぐり、木立の中を進んで行くと、現在、館にお住まいの鶴岡家の奥様である功子さんが、両開きのガラス木戸の扉を開けて出迎えてくれた。
「日新館」は小坂旅館主人・小坂亀松が、明治35年に外国人向けにと建てた洋館で、旧制横手中学校に赴任してきたアメリカ人英語教師チャールズ・C・チャンプリンを最初に、6人の英語教師の住居として使われた。最後の居住者、マルチン・M・スマイザーはこの洋館を買い取り、昭和30年に80歳で息をひきとるまで41年間、最も長くここで暮らした。教職を辞した後は宣教師として熱心な活動を行っていたという。
「日新館」では、このスマイザー氏が住んでいた当時の様子を公開している。1階は鶴岡さんの居住部分がほとんどだが、2階はすべて見学可能で、スマイザー氏が初めて横手駅に降り立った時に持っていたかなり大きな皮製のトランクや、タイプライターなど、当時使われていた物がさりげなく展示されている。応接室の書棚や家具にスマイザー氏の日常が垣間見られ、なぜか遺品という感じがしないのが不思議である。それにしても、なぜ鶴岡さんはこの洋館に住まわれているのか。伺ってみてあらゆる疑問が解けた気がした。
最初はご家族と住んでいたスマイザー氏だが、妻と子供が日本の暮らしになじめないとアメリカに帰国。さらに、スマイザー氏の身の回りを世話していた女性たちも結婚をし、最後まで献身的にスマイザー氏の生活を支えたのが、信仰を求めてスマイザー氏のもとに来ていた鶴岡さんの叔母、鶴岡隆子さんだったという。スマイザー氏が亡くなった後、スマイザー氏の意向により鶴岡隆子さんが日新館を相続。そしていま、鶴岡さんが叔母さん亡き後に秋田県指定有形文化財「旧日新館」となったこの洋館を、ご家族とともに暮らしながら守っているのである。大事な人の思い出を大切に繋いできた経緯があるから、そこにあるものたちが、いまもいきいきと息づいているのだろう。
しかし、当時の大工たちの腕と心意気には驚かされる。洋館など見たこともなかっただろう横手の大工たちが、南部出身のアメリカ人が書いた1枚のスケッチだけをたよりに、秋田杉を使って素木造りの美しく堅牢な洋館を建ててしまうのだから。文明開化、戦中・戦後の時代の波から異国人を守り、日本の見事な大工の技術をいまに伝えている貴重な洋館が、いつまでも丘の上にあってほしいと願わずにはいられない。日新館は毎週水曜日の午前9時から午後4時、鶴岡功子さんの案内により、無料で入館が可能である。
rakra2007年1月号掲載
2006年12月頃撮影
【応接間】秋田杉の木のぬくもりと、洋の調度が調和している。
【本棚】いまもスマイザー氏の愛読書が並んでいる。
【タイプライター】使い込んではいるが手入れが行き届いている。
【長靴】これを履いて布教に出かけ、長靴宣教師と呼ばれていたという。
【窓辺の椅子】見晴らしのいい窓のそばで読書もしたのだろう。