弘前城天守
気高く美しい
歴史を見守り続けた津軽の象徴
「なんて可愛くて上品な城だろう」
弘前城天守を初めて見た観光客は、そう言って下乗橋の前で記念撮影をするという。
さくらまつりだけで、全国から毎年200万人もの人々が訪れる青森県弘前公園。四季折々の自然に溶け込む天守は、いつ見ても気高くて、たおやかだ。
弘前城は、津軽統一を果たした為信が慶長8年(1603)から計画し、2代藩主信枚が慶長16年(1611)に完成させた津軽氏の居城。廃藩に至るまでの260年間、津軽藩政の中心をになった。
天守は築城当初5層で本丸西南の隅にそびえていたが、寛永4年(1627)落雷で焼失。その後、長い間弘前城に天守はなかった。現在の天守は文化7年(1810)、9代藩主寧親が10万石昇格を契機に、本丸辰巳櫓のあった場所に櫓の造営を目的として、幕府の許可を得たという。三層三階の天守は史料館として公開され、往時の歴史を今に伝えている。
白漆喰に、北国ならではの寒暖の差を考慮した銅板瓦葺きの屋根を見上げ、シンプルな入口から一層目に入る。
こぢんまりとした天守の中で目を引くのは、敵に石を落とす「武者落」。弓を射るための小さな窓「矢狭間」も整然と並び、江戸時代へ想いを馳せることができる。
当時のままの急な階段を上って二層目に入ると、200年前に建てられた証の棟札が展示され、名板には地元大工など天守造営に関わった人たちの名が記されている。また武将が身につけたであろう鎧なども展示されていた。
更に急な階段を這うように上がると、三層目の真ん中には弘前城本丸御殿の模型。城主のプライベートな空間である大奥の位置などが示されていて、とても興味深い。
連子窓から北西を眺めると、青葉の向こうに少しだけ雪を残した岩木山が眺望できる。その光景はあまりに雅で、お城と見つめ合うようにそびえていた。
このように、江戸時代に建てられた天守が現存しているのは東北では唯一、弘前城だけ。櫓、門など当時のまま残されているのは全国でも珍しい。それは、弘前が廃藩後、市と市民が主体となって、弘前城を公園として大切に守ってきた証し。
広さは東京ドーム11個分。国の史跡である園内を散策していると、夏雲が天守の上を、ゆっくりと横切っていった。
rakra2008年7月号掲載
2008年6月頃撮影
【天守】本丸側から眺めた姿はとてもシンプル。飾り屋根を施した側と比べてみて。
【棟札】「文化七年十月廿九日御櫓新規御造営」と記された本物の棟札。
【具足】当時の武将が身につけた鎧と兜。
【武者落】石垣をよじ登り攻めてきた敵に石や矢を落とすための窓。小学生の社会見学で子どもたちが最も興味を示すところだ。