盛岡町家
この町の歴史を伝え続ける暮らしの空間
盛岡城下惣門から宮古、遠野、大槌の三つの街道の入り口だった盛岡市鉈屋町。今はなき寺の山号が町名の由来という。清水が湧き、町の人たちが、その水場を大切に守りながら暮らしている。
その鉈屋町界隈に今なお残る「盛岡町家」。藩政時代、町人が肩を並べて暮らした住まいの形態で、つまりは横に連なった集合住宅とでもいえばいいだろうか。町家は間口が狭く、奥に長い形が特徴だ。京都の町家を思い浮かべれば分かるだろう。しかし盛岡の町家は、京町家とは明らかに違うのだという。
盛岡町家には、青森県弘前市や黒石市などに残る「こみせ」(木造のアーケード)の名残がある。北国ならではのつくりだ。そして最大の特徴が、「常居」と呼ばれる空間。常居は主人の間、その家の中心だ。天井は吹き抜けで、凝った小屋組みが見える。そして立派な神棚が据えられている。神棚を踏みつけにしないために2階を上げず、吹き抜けにしているのである。
町家空間は、初めて足を踏み入れても、なぜか懐かしい感覚にとらわれる。それはきっと、そこに暮らした人たち、その家に集った人たちの息づかいが残されているからだろう。しかし、長く暮らしが営まれてきた町家も、時代の流れに押され、少しずつ減っている。
そうした流れをくいとめようと、鉈屋町の住民は専門家とともに、街並みと町家の保存を続けている。そしてこの秋、空き家となっていた1軒の町家が再生し、この町を訪れる人たちのための「お休み処」に生まれ変わった。
その町家は共同の水場「大慈清水」のすぐそばにあり、もとは八百屋。明治中期の建物だという。外観は道路に平行に屋根を伸ばした「こみせ」風。通りに面した板の間は店舗だったところ。その奥に、どっしりと構えた常居がある。やはり吹き抜けで、天井には天窓が見える。小屋組みの木は深い色に変わり、この家の歴史を物語っているようだ。神棚とは反対の位置に、通り土間が設えられ、その上が渡り廊下となり2階の部屋をつないでいる。常居の後ろ側には台所と座敷。その奥には小さな坪庭……。
盛岡町家の良さを残しながら、誰もがくつろげるようにと、修復とともに現代の建築技術も加えられた。道行く人が、ついのぞきたくなる。そんな雰囲気を漂わせている。それもそのはず。ここで、お茶や食事も楽しめるのだという。「ここに座って、この空間をゆっくり体験してもらいたい」。その思いから、この場所での「おもてなし」が始まった。
町家は、この町の宝もの。それは古いものだからという理由だけではないだろう。暮らしの記憶を引き継ぎたい。その思いが、この町と町家に息づいているように思えた。
rakra2007年11月号掲載
2007年10月頃撮影
【灯り】あたたかな灯りが通りに格子模様を描く。
【小屋組み】天窓をもつ木組みは荘厳な空間を生む。
【床の間】曲線が美しい床の間。障子をしまう知恵でもある。
【模様ガラス】細かな模様の入ったガラスが時代を感じさせる。