「国の礎を支える」
-日本初のコンクリートダム(荒瀬ダム)撤去工事-

総合建設業として、創業以来100年以上の歴史を築くフジタ。
老朽化が進んだインフラ構造物が増加する中、
日本初のコンクリートダム撤去工事に取り組んだ。
株式会社フジタ九州支店 宮地 利宗 株式会社フジタ九州支店 宮地 利宗

株式会社フジタ九州支店

宮地 利宗【TOSHIMUNE MIYACHI】

1993年:入社、名古屋支店に配属

1995年:阪神・淡路大震災後、大阪支店に異動。その後、九州、沖縄、東北で勤務

2012年:荒瀬ダム撤去工事 作業所長に任命、着工

2018年:荒瀬ダム撤去工事完了

(左)ダム撤去前(右)ダム撤去1年後の風景(左)ダム撤去前(右)ダム撤去1年後の風景
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日本初のコンクリートダム撤去工事

Spirit of Hearts

熊本県南部を流れる清流、球磨川。銀色に輝く鮎を狙って、釣り人が竿を垂らす姿が見える。かつて、ここには川の豊富な水を利用して発電する荒瀬ダムがあった。1955年に完成し、50年以上にわたり経済発展や治水に貢献してきたが、水利権が失効。それに伴い、2012年、コンクリートダムを撤去するという日本では前例のない工事が行われることになった。

発注者さまは熊本県企業局。施工は、株式会社フジタと中山建設株式会社のJV(共同企業体)が請け負った。フジタの宮地は、現場の指揮を執る作業所長に任命された。宮地は、これまで地下トンネルや橋梁(きょうりょう)、新幹線の高架、揚排水施設など、さまざまな構築物や施設をつくってきたが、撤去工事もダムも初めての現場だった。

荒瀬ダムは堤高25.0m、堤頂長は210.8m。初めて現場を訪れた宮地は、9本の門柱がそびえ立つダムを目の当たりにして、「本当に撤去できるだろうか」とその存在感に圧倒された。

課題は他にもあった。球磨川の鮎は春に遡上(そじょう)し、秋に産卵する。そのため、河川工事ができるのは、孵化(ふか)した稚魚が海へ下りた後の11月初旬から3月中旬まで。さらに水域内の工事は2月末までの実質3.5カ月に限定された。工事期間は6年。こうして2012年4月、日本初の本格的なコンクリートダム撤去工事が始まった。

(左上)門柱の発破(左下)濁水流出を防ぐ汚濁防止膜(右)ダム撤去直後の風景(左上)門柱の発破(左下)濁水流出を防ぐ汚濁防止膜(右)ダム撤去直後の風景
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木を切り倒すように門柱を倒す

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荒瀬ダムの撤去は、次の手順で進められた。(1)ダム本体の「堤体」に穴を開け、上流側の水位を下げる。(2)門柱の間にある「鉄鋼製ゲート」を撤去する。(3)川の流れの中心にあたる右岸側の「みお筋部」を撤去して、流れを一部復活させる。(4)「門柱」や「管理橋」を発破や重機で解体し、堤体を撤去して完了だ。

中でも難しいのは、門柱の発破だった。建設当時のコンクリートは、今のコンクリートとは内部の骨材が異なり、発破したときにどのように崩れるか予測できない。発破専門の会社も二の足を踏んだ。宮地たちフジタとJVのメンバーは、より安全な方法を求めて、文献を調べ、検討した。

そんなとき、宮地は「木を切り倒すように門柱を倒せないだろうか」と思い付く。昔、造成工事に携わったとき、チェーンソーで木を伐採して道をつくったことがある。門柱の根元にV字型の切り込みを入れて発破すれば、きっと倒せるはずだ。過去に類似の工事をしたことがある会社にも相談。撤去工事1年目、岸側の門柱で試験発破を行った。ところが思ったようには、うまくいかない。しかし、成功への道筋は見えてきた。

2年目の冬。発破のためのダイナマイトを入れるV字の角度を変え、躯体の鉄筋を切断し、確実に倒壊するよう準備をしっかりと整えた。いよいよ発破の当日。発注者さまやテレビ局、住人の方々、大勢の見物人が見守る中、宮地はカウントダウンを始めた。

「…5、4、3、2、1」「発破!」

轟音(ごうおん)を立てて砂ぼこりが舞い、巨大な門柱が見事に倒れた。「ずっと考え、悩んできたことが報われた瞬間でした」と宮地。喜ぶメンバーと握手を交わし、抱き合った。

だが、まだ工事は序盤にすぎない。より確実に精度を高め、「この方法なら大丈夫」と太鼓判をおせるよう、門柱を倒すたびに改良を続けた。

門柱の発破

門柱撤去後の様子

球磨川とダムの面影を残す遺構球磨川とダムの面影を残す遺構
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経験を蓄積し、継承する

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土木は「経験工学」だといわれている。現場によって地形や地質、気候などが全く異なり、その経験を蓄積し、後進に継承していくことで、より良いものができあがるのだ。それは「つくる」だけではなく「撤去する」工事であっても同じこと。宮地は自分の経験を活かすだけでなく、社内外のさまざまな知見や技術を取り入れた。

例えば、民家やJRのレンガ積みトンネルに近いところの発破は、振動や騒音をいかに低減するかを考慮。社内の技術部のアドバイスで、民家の近くでトンネル工事をする際に使う低振動・低騒音の「雷管」などを状況に応じて使い分けた。撤去工事1年目、堤体に穴を開ける際に用いた「FONドリル工法」は、トンネル工事に使うフジタの保有技術であり、工期やコスト短縮に役立った。また、濁水流失を防ぐため河川に張った「汚濁防止膜」は、通常なら港湾や河川工事で行う対策だ。さらに川漁で生計を立てる方たちにできるだけご迷惑をかけないよう、水が濁ったら澄むまで待ち、濁る時間が極力短くなるよう心がけた。

工事が軌道に乗ると、当初5人いたJVメンバーは1人、2人と違う現場へ移っていった。最後の2年間、宮地は1人で宿舎に寝泊まりし、施工会社の作業員たちと共に働いた。宮地は、難工事に懸命に取り組んでくれた彼らを「私の家族」と呼び、「家族だからケガをしてほしくない」と安全遵守を厳しく徹底した。そうして毎期の工事が終わるたびに慰労会を開き、来年の再会を約束した。

最終年、両岸に接した堤体の一部を、歴史を後世に伝える「遺構」として残し、展望スペースを整備した。その最後の作業が終わった2018年3月、足掛け6年に及ぶ工事が、ついに幕を下ろした。

発破の準備をする作業員

発破の準備をする作業員

遺構の展望スペース遺構の展望スペース
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土木は日本の礎を支える仕事

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令和元年の初夏、宮地は久しぶりに荒瀬ダムの跡地を訪れていた。球磨川は、鮎の産卵場所である「瀬」や「砂州」が現れ、川底を見通せる日もあるほど透明度が増した。鮎のエサになるケイ藻が増え、鮎や他の生き物も増えているという。

展望スペースから川を見下ろし、宮地は当時を思い返す。「どうすればうまくいくか考えているときが、一番苦しくて、一番楽しかったかもしれない」と笑う。ひらめいたアイデアを実行に移し、成功すれば、産みの苦しみも喜びに変わった。

その過程で多くの人に助けられた。「自分一人で考えていると周りが見えなくなりますが、ひとこと助言してもらうと道が開けると身をもって知りました」と語る。そして、会社は宮地に責任者として大きな裁量権を与え、見守ってくれた。

フジタのフィールドである土木の業界へ、宮地が進んだきっかけは、父だった。中学生のとき、進路を迷っていると「土木は、日本の礎を支える仕事だよ」と声をかけてくれた。それから土木を学問として学び、現場で学び、今日がある。父の言葉は、今も背中を押してくれる。事業を通じて「日本の礎」を支え、人々や社会に貢献するために、たゆまぬ努力を続けていこうと宮地は誓う。

球磨川を背にして語る

球磨川を背にして語る

※掲載の情報は2019年8月時点のものです。

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