陶芸の大家にして、かの「民藝運動」の中心を担った河井寛次郎。他者との交流を好み、家族との暮らしを大切にし、この世のあらゆるものに感謝を捧げた慈愛の人でした。その温かな人柄と、生涯をかけて追い求めた美の世界は、河井寛次郎記念館(京都・東山)で知ることができます。使い込まれて飴色に輝く床や柱、何気なくそこにたたずむ作品たち。寛次郎の愛した空間に身を置いて、その心に自らの想いを重ねてみることができます。
近代陶芸の先駆者である河井寬次郎(1890-1966)。仕事と暮らしの融合を目指した彼は、京都・東山に窯と陶房、そして住まいを構えました。今も残るその家は、親族の手で大切に手入れされ、多くの作品やコレクションとともに「河井寬次郎記念館」として公開されています。
ご案内くださったのは、寬次郎の孫娘である学芸員の鷺珠江(さぎ たまえ)さん。ご自身も子ども時代をこの家で過ごし、寬次郎と生活をともにしておられました。才気あふれる作品を生み出した陶芸家であり、優しいお祖父さんでもあった寬次郎について、懐かしい思い出話を語るようにお話しくださいました。「できるだけ間取りや家具、飾られた作品を当時のまま展示しています。ここで自由にお過ごしいただきながら、寬次郎という人間の魅力を知っていただければ幸いです」。
河井寬次郎は明治23年、島根県安来市で建築業を営む家に生を受けました。尊敬する叔父の勧めで日本一の陶工を目指し、東京高等工業学校(現・東京工業大学)の窯業科に入学。やきものの化学的知識を身につけると、卒業後は京都市立陶磁器試験場に入所して約3年間、釉薬(うわぐすり)の研究に励みました。
東山に職住一体の住まいを手に入れたのは大正9年、30歳の頃。同年には結婚もし、後に一女をもうけます。この地に居を構えるようになってから、より一層陶芸の道に邁進するようになりました。
1・2階をつなぐ吹き抜け。記念館を訪れた人は、実際に椅子に腰かけ、中庭を眺めながらゆったりと過ごすことができる
河井邸の特徴は、外観は京町家の雰囲気を持ちながら、内観は飛騨高山の農家の家をイメージした重厚なしつらいであること。室戸台風で旧宅が損傷したことから、昭和12年に寬次郎自身が設計し、実の兄を棟梁とする大工集団を島根から呼び寄せて建て直しました。
1・2階をつなぐ吹き抜けの下には囲炉裏が設けられ、床を一段高くした畳の間があります。その向かいには、餅つきに使う臼をくり抜いて作った椅子が三つ。寬次郎はここで家族や来客に、気軽な安来風のお抹茶を何杯でもふるまいながら、楽しい団らんの時を過ごしたそうです。
2階は主に家族が寝起きする場所。吹き抜けの周りをぐるっと回れるレイアウトで、障子を開けると1階とつながる一体感のある間取りになっています。「上段の間にはお客さまをお泊めすることもありました。電灯も、飾り棚も、面白い形をした椅子も、多くは寬次郎がデザインしたもの。郷里には身近に職人さんが多くいたので、注文して作ってもらっていたのです」(鷺さん)
居間として使われた和室。中庭からの光で部屋全体が明るい。手前に寝転ぶのは記念館の愛猫・えきちゃん
重厚感のある住まいですが、心地良い明るさを感じるのは中庭からたくさん光が入ってくるから。生い茂った笹の向こうには廊下があり、陶房や窯のある場所へつながっています。
陶房の手前には、娘の誕生記念に植えたという藤の棚。その下には釉薬の入った大きな甕(かめ)を並べ、ここで釉掛けや絵付けをしていたそうです。藤棚が作る快適な日陰は、孫たちの格好の遊び場でもあったことでしょう。楽しそうに遊ぶ声を聴きながら、穏やかな気持ちでろくろを回していたのかもしれません。
登り窯は鐘鋳町(かねいちょう)という地名にちなんで「鐘溪窯(しょうけいよう)」と命名。近所の陶芸家や産業用のやきものを生業とする人たちと共同で使い、昭和46年に市街地での窯の使用が規制されるまで、ほぼ毎月のように火を入れていました。寬次郎は手前から2番目の室を好んで使っていたそうです。
陶房の庇の先に作られた藤棚。暑い時期には快適な日陰を作る
江戸時代に作られたという登り窯。大正9年、寬次郎が譲り受けた
陶芸家として寬次郎を有名にしたのは、中国古陶磁に倣った鮮やかな色彩をもつ作品でした。それまで培ってきた化学知識に裏打ちされた華麗な作風は、「陶芸界に彗星あらわる」と世間から大絶賛されました。しかしそうした作品に、やがて寬次郎本人は疑問を持つようになります。
その頃寬次郎は、イギリスのスリップウェアや朝鮮の李朝陶磁の素朴な美しさに出会います。そして人々が生活で使うために作られた器の中に存在する、健康的な美しさに惹かれていきました。
大正末期より、寬次郎は思想家柳宗悦や学生時代の後輩であり盟友である陶芸家の濱田庄司らとともに「民藝運動」を始めます。それまで評価されることのなかった、名もなき工芸品の美しさを世の中に伝えたい。民藝運動のメンバーらは日本全国の民芸品を収集し、世の中に紹介していきました。そして、寬次郎自身のものづくりも民藝運動に連動して、「用の美」を追い求めるようになりました。
左:愛用していた自作の脇息(肘置き)。中には好物の飴などを入れていたそう
右:「指先に玉」のオブジェ。「手」は寬次郎が好んで用いたモチーフ
左:筒描という技法を用い、生き生きとした鳥を描いた壷(1951年)
右:1955年頃の木彫作品。玉を捧げ持つ2羽のウサギの姿が可愛らしい
陶房に展示されている、静かな迫力が漂う大壺
寬次郎は自身の陶芸を「一人の仕事でありながら、一人の仕事でない仕事」と語りました。やきものを作る過程を支えるさまざまな働き手―山から土を運ぶ人、薪を調達する人、窯の火を三日三晩焚き続けてくれる人、さらには土や水や火など自然の恩恵によって初めてやきものが作れるのだと考えたからです。
そのため、初期を除いて、ほとんどの作品に自分の銘を入れることをしませんでした。「銘を入れなければ偽物が出回りますよと言ってくれる人もいましたが、寬次郎は笑って『美しければ偽物もまた本物ですよ』と言い、気に留めていませんでした」(鷺さん)。地位を得ることや自分の作品が芸術品として扱われることには興味をもたず、ただ純粋に、自分の美しいと感じるものを追求したのです。
第二次世界大戦が起こり、窯焚きができなくなった時期には、書くことによって自己表現を続けた寬次郎。自身の仕事に対する思いや、自然の調和の素晴らしさへの賛辞を、素直な視点で記した書や絵画をたくさん残しました。
また、晩年には多くの木彫作品や金属のデザインなども手掛けました。ウサギや猫などの小動物や、3人の孫娘をモチーフにした可愛らしい作品からは、対象物への慈愛がにじみ出ているようです。
京都を訪れることがあったら、河井寬次郎に会いに、記念館へ足を運んでみませんか。生きる喜びに真っすぐに向き合った彼の想いが、時を超えて鮮やかに伝わってくることでしょう。
釉薬を入れていた甕。木陰の石仏もコレクションの一つ
島根県安来町(現・安来市)生まれ。東京高等工業学校(現・東京工業大学)窯業科を経て、京都市立陶磁器試験場に勤務。1920年、京都市五条坂鐘鋳町に住居と窯を得、そこを拠点に、陶磁器、木彫や金工、書などの創作活動に勤しんだ。柳宗悦や濱田庄司らとともに、「民藝運動」の中心を担ったことでも知られる。
河井寬次郎記念館 ご見学情報
開館時間/10:00~17:00(入館は16:30まで)
入 館 料/大人 900円、 高・大学生 500円、小・中学生 300円
休 館 日/月曜日(祝日の場合は開館、翌日休館)※夏期・冬期休館あり
取材撮影協力/河井寬次郎記念館
住所/京都市東山区五条坂鐘鋳町569
TEL/075-561-3585
http://www.kanjiro.jp/
2017年6月現在の情報となります。