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北里柴三郎記念館

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SLOWNER WEB MAGAZINE

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故郷に遺した館でたどる、北里柴三郎の軌跡

ロイヤルシティ阿蘇一の宮リゾート/2023.09.29

北里柴三郎記念館

2024年上期をめどに、1万円、5千円、千円の紙幣(日本銀行券)のデザインが一新されます。千円札の図柄に採用されるのは世界的な細菌学者、北里柴三郎。破傷風菌の純粋培養の確立、ペスト菌の発見など、近代医学に大きな功績を残した北里博士は1853年(嘉永5年)、熊本県阿蘇市の隣、北里村(現・熊本県小国町)に生まれました。「北里柴三郎記念館」は、北里博士が生前、故郷に建てた貴賓館や図書館などの建物を活用し、博士の偉業を今に伝え続ける場所となっています。

小高い丘の上にある北里柴三郎記念館。博士夫妻が植樹した2本の小国杉がシンボル

伝染病の危機から世界を守った、日本が誇る細菌学者

北里博士は、もともと武士を志していましたが、入寮していた熊本藩の藩校が廃止。オランダ語を学ぶために入学した熊本医学校(現・熊本大学医学部)で、オランダ人軍医マンスフェルトに師事します。東京医学校(現・東京大学医学部)卒業後、ドイツに留学。細菌学の父と呼ばれるローベルト・コッホ博士のもとで研究に励む最中に、世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功し、血清療法を確立するなど、世界の医学界にその名をとどろかせました。帰国後は、私立伝染病研究所や日本最初の結核専門病院を開設したほか、1914年(大正3年)には、私財を投じて「北里研究所」を創設。1931年(昭和6年)78歳で生涯を閉じるまで、日本の公衆衛生、医学教育、医学行政の発展に貢献しました。

開館当時、熊本県で2番目に大きな図書館といわれた「北里文庫」。現在も当時の天井や壁、ドアが使用されている

ゆかりの品々からひもとく、人間・北里柴三郎

「北里柴三郎記念館」の礎となった「北里文庫」は、1916年(大正5年)、故郷の子どもたちのためにつくられた図書館で、建物内は現在、博士の功績を称える展示場となっています。展示物の中には、図書館開設にあたって北里本人が町とやりとりをした書簡や、34年ぶりの帰省時に友人と寄せ書きした書など、北里博士の人となりに触れる遺品も数々あります。ほかにも、医師への道を勧めたマンスフェルト軍医、ドイツ留学を支えた恩師コッホ博士、帰国後の活動を長く支援した福沢諭吉についても紹介。当時並べられていた蔵書は、雑誌を含めその数1,511冊を数え、奥の書庫に保管されながらデジタルアーカイブ化も進んでいます。

帰省の際の居宅兼賓客との交流の場となった貴賓館。2階正面に、湧蓋山のなだらかな稜線が広がる

図書館と同時期に建てられた2階建ての貴賓館は、北里博士が帰省した際に過ごした、和風木造建築の別荘です。2階からは「小国富士」と呼ばれる湧蓋山(わいたさん)をはじめ、北里村の山々を一望できるよう計算され尽くした造りに。眺めを優先し極限まで装飾の無駄を除いた、品を感じる空間です。幼少時代、母の実家に預けられていた北里博士。1階には、その実家で2年間欠かすことなく磨き続けた縁側の一部も展示。ものごとを継続する難しさや大切さを説くこのエピソードは、『光るえんがわ』というタイトルで、熊本県内の小学生向けの道徳の教科書に掲載されています。

1965年(昭和40年)の河川改修を機に、敷地内に移築・復元された生家の一部

2023年(令和5年)9月には、新たにシアターホールがオープン。湧蓋山の稜線をモチーフにした建物で、館内には北里博士の生涯を動画で紹介する上映室、講演会などが行える多目的ホールなどを完備しています。敷地の出入り口には、北里夫妻が図書館建築時に植樹した2本の小国杉が健在。約110年もの間、故郷を見守り続ける2本の杉が、訪れる人を迎えてくれます。

(写真左)北里博士の生い立ちや功績を動画で紹介するシアターホール
(写真右)記念館を運営する一般財団法人 学びやの里事務局員の長浜光平さん。地域おこし協力隊として1年前から小国町へ。「阿蘇に来るまで、こんな世界的な人が生まれた場所とは知りませんでした。北里博士の研究熱心さは、しつけに厳しかった母・貞の影響が大きかったのではと思います」

取材撮影/2023年8月3日

北里柴三郎記念館[現地から約35.5km~36.0km]

北里柴三郎記念館[現地から約35.5km~36.0km]
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