七島藺工房 ななつむぎ
文化・歴史
ロイヤルシティ別府湾杵築リゾート/2023.08.30
ロイヤルシティ別府湾杵築リゾートがある国東(くにさき)半島には現在、日本で唯一生産されている植物があります。国東地方の生産農家6軒でのみ育てられている「七島藺(しちとうい)」といわれるその植物は、畳表の材料となるものでイグサとは別種。イグサよりも耐久性や耐火性に優れるため、民家の囲炉裏周りに使われていたほか、柔道畳としても世界的な大会で採用されてきました。畳やラグだけでなく、アクセサリーやインテリア雑貨など、七島藺を使ったものづくりをしているのが、岩切千佳さん。たったひとりの七島藺工芸作家です。
「取材の記念に」と、取材スタッフに美山河(ミサンガ)や馬のオブジェを目の前でつくってくれた岩切千佳さん。自ら着色した七島藺を使って、あっという間に完成
「くにさき七島藺振興会」が行う工芸士養成講座に参加したことがきっかけで七島藺と出会い、映画『蜩ノ記』で円座づくりを依頼されたことで、七島藺の作品づくりを続けようと意識した岩切さん。作品づくりも、七島藺へ色付けをする方法も、岩切さんが独学で身につけました。日本の伝統文化に注目するトップクリエイターたちは、岩切さんに七島藺の新しい作品をリクエスト。高級リゾートホテル「界 由布院」の「蛍かご照明」の制作、クルーズトレイン「ななつ星in九州」でのデモンストレーション、「ANAインターコンチネンタル別府リゾート&スパ」のテープカット用のテープを七島藺で作成するなど、九州の魅力を伝えるさまざまなプロジェクトに「七島藺」が採用されるようになりました。
岩切さんの七島藺作品 (写真左上)海老を模した正月飾り (写真左下)七島藺でつくられた「美山河(ミサンガ)」 (写真右)牛のオブジェと酒瓶包み。作品制作は完全受注制
もともと七島藺は、琉球(沖縄)でつくられていたもので、その歴史は360年前にさかのぼります。1663年(寛文3年)、府内藩(現在の大分市中心部)の商人が琉球から苗を持ち帰り、植えたのが始まりとされています。昭和30年代には、年間500万枚もの七島藺の畳表が全国に出荷されるほど地域を支えた地場産業でしたが、七島藺の特性上、その作業工程で機械化できないものが多く、生産量も生産者も激減。現在6軒の生産農家が七島藺360年の歴史を絶やさず守っています。2013年(平成25年)には、七島藺など循環型農林業を行う国東半島宇佐地域は「世界農業遺産」に認定。2016年(平成28年)には、「くにさき七島藺表」が地域の知的財産として保護される「地理的表示保護制度(GI)」に登録されています。
(写真左上) 七島藺の断面。繊維状の内側を厚い表皮が覆う (写真右上、左下、右下)円座ができるまで。七島藺を継ぎ足しながら、一本の三つ編みをつくり、畳針で糸を通してまとめていく。使うほどに艶が出て、青々とした緑から味わいある飴色へと変化。濃い香りが長く続く
七島藺の茎は三角形で、厚い表皮に覆われています。これを半分に割いてじっくり乾燥させてから、畳表などに加工していきます。椅子やベンチに使う円座は、長さ15mほどの三つ編みをつくって丸くまとめたもの。七島藺を1本ずつ継ぎ足しつつ、均一な編み幅、厚み、太さを保って編んでいきます。七島藺に艶を出すために「キュッキュッ」と音がなるほど指の力でしごき、引っ張りながら編み進めていく作業はとてもリズミカル。しかし、編み込むたびに岩切さんの前腕の筋がピンと張るのが見えるくらい、意外と力仕事なのがわかります。
安岐町にある浄泉寺で開催された夏のイベント「くにさき竹あかり」では、七島藺を使った茅の輪づくりを担当。岩切さんが七島藺の束を重ねて大きな輪をつくり、ボランティアスタッフがてがけた竹の枠に飾られた茅の輪は「しちのわ」として夏祭りを彩る
岩切さんは、作品制作と並行して、工房でアクセサリーづくりのワークショップを行っているほか、地元国東市安岐町の小学5年生を対象に、七島藺の鉢植えや生産農家さんの協力を得て乾燥作業などを指導。半年に及ぶ社会見学は10年近く続いており、今や下級生たちが憧れる行事になっているそうです。「自分では思いつかないような企画をいただいて、一緒に形をつくりあげていく楽しさを感じています。子どもたちに七島藺を残していけるように頑張らないと」と語る岩切さん。今年からは生産農家さんと共に、七島藺栽培も手掛けています。
取材撮影/2023年7月1日、2日
七島藺工房 ななつむぎ[現地から約30.7km~31.5km]
https://www.instagram.com/shichitoui_nanatsumugi/
浄泉寺[現地から約14.8km~15.4km]