大谷石彫刻家 渡邉哲夫さん
文化・歴史
南那須・大金台林間住宅地/2023.01.27
住宅の外壁や門柱、古くはかまどにも使われてきた大谷石(おおやいし)。柔らかく加工しやすいうえに、耐火性や防湿性にも優れていることから、寺院の基礎や城の築城にも採用されています。大谷石は、地質岩石学上は「流紋岩質溶結凝灰岩(りゅうもんがんしつぎょうかいがん)」という名称の凝灰岩の一種で、国内では他にも、いろいろな凝灰岩が採掘されています。中でも、南那須・大金台林間住宅地が位置する那須烏山市の西、栃木県宇都宮市大谷町付近一帯は、東西約4km、南北約6kmにわたる規模で採掘が続けられている、世界的にも希少な場所です。
大谷石の名が広く知られるようになったのは、1923年(大正12年)に発生した関東大震災がきっかけです。20世紀を代表する建築家フランク・ロイド・ライトの設計でふんだんに大谷石を使って建てられた旧帝国ホテル本館が、完成披露パーティー当日に関東大震災に見舞われます。しかし、ホテルは大きな損傷もなく震災を免れたことから、その優れた耐火性・耐震性が世界的な賞賛を浴びることになったのです。旧帝国ホテル解体後、1976年(昭和51年)より、その一部である中央玄関部が、愛知県犬山市の博物館明治村に移築保存されました。当時の図面をもとによみがえった意匠は、2004年(平成16年)には登録有形文化財に登録。この復元を手がけたのが、当時まだ20代だった大谷石職人で彫刻家の渡邉哲夫さんです。当時、図面が読める大谷石職人がおらず、復元の依頼を誰もが断るなか、石彫り職人を父に持ち、東京の建築学校で学んだ渡邉さんに白羽の矢が立ちました。
渡邉さんの工房にある、帝国ホテルの許可を得て再現された現帝国ホテルのレリーフアートの一部。手刻みで完成させるレリーフアートのオーダーメイドにも対応している
「ライトのことも知らなかった自分にとって、別世界に入れられたような感覚になりました。自分にできるとかできないとかでなく、やればやるほど当時の職人さんの腕や、ライトの設計の凄さに引きずり込まれました。当時、アメリカ人のライトと、日本人の職人がどうやってコミュニケーションをとってつくっていったのかという点にも、ものすごく興味を持ちながら、作業を進めていきましたね」。完成に向け、早朝から深夜まで石を削り続ける毎日に、時には涙したこともあったという渡邊さんのもとには、その後も大谷石を使った建築物の復元の依頼が次々に舞い込み、旧宇都宮商工会議所復元彫刻や、横浜山手聖公会の復元工事など、さまざまな復元を手がけてきました。
(写真左)採掘した大谷石原石を裁断機で板材にし、仕上げは手刻み。タタキと呼ばれる手製の道具で、腿や膝、脛を支点にして細かく刻んでいく
(写真右)大谷町に古くから伝わる縁起物のカエルを、大谷石で彫刻。大願成就の他、「無事帰る」の願いを込めて
大谷石の特徴でもある、肌面に散らばる白色や青色、茶色のさまざまな斑点は、石英や長石類、黒雲母、輝石など、異なる石質の固まり。「ミソ」と呼ばれる茶色の斑点のように、時が経てば空洞になるような脆い粘土質も混在しています。ひとつの石塊でも場所によって石質が違うので、石を叩いたときに伝わる感触で、次に出てくる層を瞬時に見分けるのだとか。「柔らかくて加工しやすい反面、打ち方の力加減を間違えると思った以上に大きく割れる。そこが緊張するし、そこが大谷石の面白いところ」と、渡邉さんは語ります。
採掘場から各地に運ばれていく大谷石。古くから石の町に続く文化を「掘って凹が広がり、凸として町がつくり出される」といわれることもあります。大谷町界隈の採掘箇所は廃坑もあわせると約200カ所を数える中、現在稼働中のものはわずか数カ所となりましたが、採掘場では毎月20日に山の神への感謝祭が行われています。
「大谷石は、年老いた女性のよう」と渡邊さんは語ります。「鉄やアクリル、ガラス、木。異素材のものとコラボした時もケンカせずに、メインの素材を引き立たせる包容力がある。でも、ちゃんと自分も輝く。私が職人ということにこだわるのは、大谷石が世界に通用する石だから。ここだけでしかたくさん採れない神さまからのプレゼントです」。
「大谷石のこと話すと熱いでしょ(笑)。他の石には全く興味ないんです。大谷石ならなんでもできると思われたら、またひとつの産業になる。だから、伝わってくれるとうれしい」と語る渡邉さん。学生時代はベースギターに夢中で、「東京で音楽がやりたかったから、どうにか上京したくて、東京の建築学校に進学したいって嘘をついた(笑)」とか。動機はどうあれ、毎日描いた図面のおかげで、旧帝国ホテルの復元を任される未来が待っていました。「人生に無駄なことはないんだなと、ほんとに思いましたね」