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霧島市国分の「薩摩錫器工芸館」
鹿児島での錫産業の歴史は 1701年(元禄14年)錫鉱山が薩摩藩直轄により始まったとされます。 国内での錫(すず)の産出はほとんど例がなく、 鹿児島市谷山の錫山と兵庫県の明延(養父市)のみで、 当時は原料や加工技術は中国からの輸 入に頼っていました。 ですから・・・錫は国内の市場において、 "金”にも劣らない大変値打ちのある鉱物資源の一つだったそうです。 主に工業製品や武器など戦の道具として加工されていました。 錫器としての取組はいつから正確にはわかっていませんが、 時代の移り変わりと共にそれは飲食器、工芸品などに 広く利用されるようになりました。 そこに生まれた薩摩錫器は 高級品で藩外に販売したり、藩主など一部の特権者が使うのみで、一般に出回ることはなかったそうです。 庶民が身近な生活用品として 手にすることが出来るようになるのは明治以降のことです。 徐々に大衆化することにより、 薩摩錫器の品質と調度品としての技術は向上し、 工芸品としての深みを増していきました。 昭和初期には県内に13軒の専門業者がありましたが、 その後戦争を境に急速に衰えていきました。 原料の錫は軍事関係へ回され、 工芸品としての錫器は生産できなくなったためです。 現在、薩摩錫器を生産できる業者は県内に数軒しか存在しません。 その一つ、霧島市の「岩切美巧堂」が 新たなギャラリー「薩摩錫器工芸館」をオープンさせました。 同社は1916年(大正5年)創業、今年で100年を迎えます。 創業者の岩切登一郎氏が 錫製の蛇管を手掛けたことに始まります。 鹿児島は焼酎製造が盛んな 土地柄です。その蔵元で蒸溜の冷却用に錫製蛇管が好まれたそうです。 息子の登六氏が1933年(昭和8年)米国で開催された シカゴ万博博覧会に自身の作品を出展しました。 すると日本全国から出展された様々な名産品の中で 唯一、登六氏の錫器が賞を射止めました。 鹿児島で生まれた錫器を 世に認識させた功績は大きかったことでしょう。 しかし、時代は太平洋戦争(1941年)へ向かいます。 戦時中、原料となる錫は入って来ず、錫器など作る余裕などありませんでした。 やがて終戦を迎えアメリカの進駐軍がやってくるようになると、 米兵は薩摩錫器のその美しさに魅入られて、ワイングラスや水差し、コップ、洋皿 など欧米人向けの日用食器の注文が相次いだことで 工房を続けることができたそうです。 「薩摩錫器工芸館」のショールームは、 茶壺や和食器、洋食器、花器、小物や置物など数々の作品が展示されている他、錫器体験コーナーなど併設されています。 4世代目のお弟子さんの一人、岩切洋一さんは 『創業100年を記念してギャラリーを作りました。 地元の方は元より内外の方からも愛される薩摩錫器でありたいです。 是非、一度本物を見ていただき、感じ取っていただきたいです。』とおっしゃっていました。 伝統の錫器と聞くと、 何かしら古色蒼然としたイメージがありますが、 そこに展示してある薩摩錫器を見ていると、モダンアートにでも触れている感覚になりました。頑固に錫と向かい続ける伝統的な手法を用いて、現代的な感覚で作品に新たな風を吹き込むことで、次世代の伝統が生まれてくるのでしょうね。
岩切美巧堂「薩摩錫器工芸館」 鹿児島県霧島市国分中央4丁目18-2 TEL 0995-45-0177
高千穂リゾートより約19㎞ 写真はすべて平成28年10月撮影
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霧島は山・川・海が身近にあり、また温泉にも恵まれた自然豊かなところです。霧島はもちろん、鹿児島全体の魅力もお届けしていきます。
石垣 潤
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