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スタッフからの現地便り

静かにたたずむ日露戦争のモニュメント-姶良市山田地区「山田の凱旋門」

  • 更新日:2015年12月11日
  • カテゴリ:周辺情報


100年以上前、
日本は明治維新を経て近代国家や富国強兵化が進む中、
外国からの脅威と戦わなくてはならない状況に置かれていました。

特に当時のロシア帝国は南下政策を進め、
朝鮮半島の利権拡大を目指していました。

これを受けた大日本帝国は
安全保障上の理由でロシア帝国に宣戦布告、
明治37年2月(1904年)日露戦争が勃発しました。

満州周辺を巡って戦争は繰り広げられましたが、
日本兵は苦戦しながらも戦況は終始日本優位に進み、
明治38年9月に日本が戦勝国としてポーツマス条約が締結されました。
 

 

日露戦争の勝利で湧く国内では様々な祝賀行事が行われました。

そんな中、
従軍した人たちの無事の帰還と凱旋帰国を祝して、
国内各地に多くの凱旋門を作って大歓迎しました。

凱旋門と云えばナポレオンが造らせた
フランス・パリのエトワール凱旋門をイメージしますが、
日本の凱旋門の機縁は
祝賀行事などで建てられた“緑門”(りょくもん)といって
杉の若葉で飾り付けた簡素な門でした。

明治後期の日清、日露の戦勝以降、凱旋門は大型化され
木造やレンガ、石造りなど様々な門が登場したそうです。
 









 鹿児島県内にも鹿児島市のいづろ通りと姶良市山田地区(旧山田村)に
凱旋門が造られました。
いづろ通りの凱旋門は木造漆喰塗、高さ13m、幅9mの
立派な門でしたが昭和20年(1945年)の空襲で焼失しました。

一方の「山田の凱旋門」
高さ4.7m、幅4.9mと小じんまりした門ですが、
風格を持った石造りの見事な凱旋門です。
 
 
 また、現存する凱旋門は
ここ姶良市(あいらし)山田地区と
静岡県浜松市のレンガ造りの凱旋門で、
全国で2基しか残っておらず、
国登録有形文化財
指定されています。
 

 
 当時の山田村からの
日露戦争従軍者は陸軍88名、海軍25名の合計113名でした。

村人たちの手で造られた凱旋門は、
大国ロシアに戦勝して戻ってきた者たちを迎えてくれたのでしょう。

 

 「山田の凱旋門」
県道40号線の脇に立っています。

銀杏のコントラストと相まった石門をくぐると、
その先には長い石段があり
途中には巨大な砲弾が飾られていました。

さらに上奥には招魂社があり、
西南の役、日清戦争、日露戦争、
そして大東亜戦争で亡くなった英霊が祀ってありました。
 














 付近は、薩摩藩の地頭仮屋(役所)が置かれ、
半士半農の武士(郷士)が住み、
屋敷跡の面影を通りのあちらこちらに見ることができます。




その一角には『西郷隆盛の腰掛け石』なるものを発見。

西南の役・田原坂から退却する途中、
西郷軍はこの屋敷を宿舎とし休憩した折、
西郷翁が腰掛けて休憩した石だそうです。

この地を後にし、
鹿児島市内の城山で自決され
明治10年(1877年)9月、西南の役は終わりました。

 
山田村にとってこの凱旋門を造るという一大事業は
とても大変な事だったでしょう。

村人たちの様々な想いが込められた「山田の凱旋門」
静かにたたずみ、今を見つめているようでした。

※写真はすべて2015年12月撮影


山田の凱旋門
姶良市下名1187番地山田地区公民館横
(お問合せ)
姶良市教育委員会社会教育課文化財係
TEL 0995-62-2111


 ※ロイヤルシティ霧島妙見台より約26㎞



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