杵築市には特産の物品が、たくさん有ります。
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海では、海草ワカメ・ヒジキ、ハモ・タチウオ、シラス・イリコ、アサリ・ハマグリ・カブトガニ? |
陸では、ミカン・茶・椎茸・米お酒・苺・七島イ、白ヒゲ神社のドブロク、そして 人情!など~
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今回は、果物 ミカンのルーツや逸話について、調査してみようと思います。
(ミカンの花)
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食用柑橘は、種類・系統・交配新種など現在たくさん有って、とても数え切れません。
おおいた中央柑橘園芸連さんのミカン祭りでの展示会 (2008年1月撮影)
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杵築では、空調完備のハウス、屋根掛け、路地栽培など、様々な方法が取られています。
(まるで、ヨーロッパのブドウ畑?、杵築の露地ミカン畑の風景です)
(写真の上部は、ハウスみかんのビニールハウス) 「2010年5月14日撮影」
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広義的な漢字では『橘(たちばな)』で表記されます。 日本にも古来固有種の橘が有りました。
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■日本固有の橘の分類 |
◇常緑低木で、双子葉植物網 ムクロジ目 ミカン科 ミカン属 |
◇日本固有の原生橘は、ヤマト(ニッポン)タチバナと命名されています。 |
果実は3~6cmで、酸味が強く食用に向かない。(北限は、静岡県沼津市) |
~239年編纂の魏志倭人伝も、日本橘は漢方薬にも食用にもされず、と記されています。
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■原種~分布 |
◇3000万年前、インド東北部アッサム地方が、橘の原種発祥地とされる。 |
◇多種多様に分化しながら、東アジアの温暖な地域に分布したとみなされています。
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■食用橘(=柑橘類)の倭国伝来 |
◇甘味食用の柑橘類は、遅くても6世紀後半頃に大陸から伝来したと思われています。 |
漢字で書く『蜜柑』を、『みっかん』と音読みして、やがて『ミカン』と呼ぶようになったそうです。 |
◇伝来種の蜜柑は、中国南東の浙江省沿岸に在る温州市だと特定されています。 |
渡来系の甘いミカンにあやかって、『ウンシュウ・ミカン』と呼ばれるようになります。 |
◇ミカン命名には、神巧皇后が三韓征伐のとき、半島から持ち帰えった、という説も有ります。 |
三韓(さんかん)が(みかん)になった説です・・・・・が、この説は、とても苦しい~甘く無い話かも~・・・
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■栽培地 |
◇古代倭国での蜜柑の大規模な栽培地は、大陸と地理的に近い肥後(熊本県)の八代でした。 |
ここ八代で甘みを増した突然変異ミカンが現れて、倭国の温暖な各地に広がったのでした。 |
温州ミカンは英語で、八代の南隣の薩摩から、SATUMAまたはMIKANと表記されるようです。 |
◇日本国内の柑橘の生産量の順位は、一位:和歌山、二位:愛媛、三位:静岡の各県です。
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~チリメン脱線~
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★古代倭国の橘考 |
◇日本橘は、香り高く大木にならず、積雪にも耐えて成長していくことから、 |
古代の人は「人徳あり奥ゆかしい人」を橘に、なぞらえたと云います。 |
~また、力強い常緑の葉は、松と並び『絶えない永遠』の象徴とされる縁起ものです。 |
渡来系の橙は『代々』繁栄につながると、同じく縁起ものとなります。
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◇奈良時代では、「右近、橘。左近、桜」と呼ばれ、共に縁起の良いものとして愛されました。
右近の橘 左近の桜
※上の写真は、大阪市北区曽根崎の 露(つゆの)天神社の『橘』と『桜』 (2010年5月10日 撮影)
(大阪出張の折、学生時代の後輩と立ち飲み酒場をハシゴしているときに偶然発見した『右近と左近』)
★ 露天神社
◇かつては孤島に在った社で、五柱神を祀っていました~社伝の創建は700年~
◇菅原 道真が、901年~大宰府へ左遷のとき都を偲んで涙した社で、以後、天神社と云われます。
◇江戸時代の実話をモチーフとした、近松 門左衛門 の『曽根崎心中』ゆかりの天神社です。
~悲劇のヒロインお初さんの名前から、お初天神さん、と親しみを込めて呼ばれています。
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★橘姓の始まり |
◇倭国で初めて橘姓を賜ったのは、奈良時代の女官の橘 三千代 さん(665年生~732年没)です。 |
◇県犬養(あがた いぬかい)の娘で、43代 女帝の元明天皇に仕えて、708年に橘姓を賜ります。 |
~二回目の結婚で藤原 不比良の後妻となり、光明皇后を生んで摂政藤原の基をつくる~ |
◇先夫の子どもらが橘姓を継ぎ、天皇から「橘 宿禰(しゅくね)」を賜り、子孫らは「朝臣」の字名を賜る。 |
~橘姓は、源・平・藤とならぶ日本四大姓のひとつです。
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★家紋 橘
種の無いミカンは
縁起が悪いとする武士もいたようですが、
『永遠の繁栄』を願った橘花葉の家紋が
平安時代になって、登場します。
ミカンの花つぼみ
橘の家紋デザインは、
葉と蕾と花の組み合わせですね。 |
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◇昭和の時代になって『永遠の印』として、橘は桜に代わり勲章のデザインにもなりました。
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★★★倭国に食用柑橘(ミカン)を持ち帰った人・・・・・ タヂ マモリ ・・・・・ |
古事記では、多遅 麻毛理。 日本書記では、田道 間守と表記されています。 |
田道 間守は、橘祖、菓祖として、現在も祀られています。
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■田道 間守 (タヂ マモリ) |
◇日本書記によれば、新羅から渡来した天 日槍(アメのヒボコ)の曾孫とされる。
<日槍は、邪馬台国の卑弥呼に仕えた説があります>
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◇西暦 61年に、11代 垂仁天皇の特命を受け、長寿延命が叶う橘を求めて海外まで捜索を敢行。 |
~苦節10年、大陸の橘を持って帰国したが、既に垂仁天皇は崩御されていた。・・・・・残念です。 |
~忠節を尽くす官人として崇拝され、やがてミカン橘の祖神として、神格化されていきます。
杵築市 奈多八幡宮の境内に在る 田道 間守公像 (2009年11月撮影)
~右肩には、ミカンを背負っています。
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◇田道は、持ち帰った食用橘を倭国の各地に広めました。 <同時に、養蚕も広めたと云われています>
~伝承では、12代 景行天皇が九州巡行のとき、播磨に居た田道は巡行隊を追いかけます。
ミカンを天皇に献上する為で、やっと追いついた場所が肥国の八代なのです。→八代ミカンの発祥始まり
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◇橘(タチバナ)の語源は、田道が持ち帰った橘の花 ⇒ 田道の花(タヂのハナ)が由来とも云われています。
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■お菓子の神社 |
◇田道 間守の七代あとの連(むらじ=官職位)三宅 吉士が、祖神を祀る中嶋神社の元宮を建立しました。 |
中嶋の由来は、 間守のお墓が垂仁天皇陵の濠の中に在って、島のように見えたからと云われています。 |
柑橘を倭国に持ち帰った田道 間守は、橘祖神として祀られました。
~中嶋神社は、兵庫県の旧県社で、豊岡市に在ります~社伝の創建は、569年~
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◇8世紀になると大陸から、砂糖が伝来します。 そして、柑橘ミカンの砂糖漬けが、『菓子』と呼ばれます。 |
そのため、ミカン菓子の起源となる神様は、倭国に柑橘を持ち帰った橘祖神(田道 間守)と云うことなのです。 |
やがて、橘祖神を祀る中嶋神社は、お菓子の神様を祀る神社の総本宮にも成りました。 |
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~紀州蜜柑ミカン発祥の和歌山県の橘本神社にも、分霊された菓子神が祀られています。 |
~砂糖の伝来地とされる佐賀県伊万里の伊万里神社にも、菓子神を祀る中嶋神社が在ります。 |
(日本の菓子メーカー大手3社のルーツが、佐賀県に在ると聞いたことが有ります)
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◇ミカン栽培が盛んな杵築市。 奈多八幡宮の境内にも、橘本神社の摂社が在ります。
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海の鳥居から続く鳥居をくぐると・・・・ 奈多八幡宮の本殿と大クスが・・・・・ そして、境内に田道 間守の像が・・・・
(写真は、全て2009年11月撮影)
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★ミカンひとつを採っても、様々な歴史とエピソードが在るものですね~ |
ミカンを食べるときには、生産者に感謝し、古代を偲びながら、美味しく食べたいと思います。
おおいた中央柑橘園芸連さん
~みかん祭りでの品評会
(2008年1月撮影) |
文責:チリメン(間違ってたらゴメンナサイ) |