豊後武士その参★では、 |
豊後武士の英雄 : 緒方 三郎 惟栄について、ご紹介致します。 |
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緒方 三郎 惟栄(おがた さぶろう これよし)
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■略歴 |
生没は、1143~1195とされるが不詳。 |
平安末期~鎌倉草期の時代にかけて、豊後武士団を束ねた武将。 家紋は鱗門。 |
九州での平家追討の総大将として、鎮西探題の大宰府を攻め、平家方の九州勢力を駆逐。 |
壇ノ浦の戦い前に、困窮した源氏方に兵船や兵糧を送り、源氏の勝利に大きく寄与した。 |
源平合戦のさなか、平家寄りの宇佐八幡宮を焼き討ちした罪により、上野国に流刑となる。 |
恩赦により故郷の豊後を目指すが、帰路の途中で病死したという悲劇の英雄。 |
(歴史上の人物に数多く会っているので、大河ドラマに是非、取り上げてもらいたいです)
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■祖神が蛇神 |
惟栄は、平家物語にも『恐ろしき者の末裔なり』と記されるほど、平家に恐れられました。 |
『恐ろしき者』とは、蛇神(祖母岳大明神)の子とされる大神 惟基(これもと)のことです。 |
大神 惟基は豊後武士37氏の姓祖で、惟基の五代あとに緒方 惟栄が誕生しました。 |
蛇神の末裔として、緒方 惟栄の背中には、蛇の尾の形をしたアザがあったそうです。 |
これにより、尾形とする姓が文献にも有りますが、これは後世の脚色と見られています。 |
緒方家のご子孫のなかでは、緒形、尾形、尾方と名乗る姓もあるようです。
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■豊後武士37姓のひとつ、緒方姓の由来 |
大神 惟基の四代あと臼杵 惟茂 の三男: 惟義(これよし)として生まれる。 |
成人した惟義は、宇佐八幡宮の荘園荘官として、豊後国大野郡 緒方荘に入部し館を構えた。 |
このとき姓を臼杵から緒方に改め、のちに名前の文字を惟栄(これよし)に改めました。 |
( 豊後大野市立 歴史民族資料館にて、館想像図を許可を得て撮影) 「2010年2月撮影」
~大野川の支流である緒方川を堀川にした、砦に近い館です~
館跡の現地看板=県道 502号線沿いの『三郎』交差点近く、田んぼに囲まれた場所に館跡があります。
(豊後大野市 緒方町 上自在) 「2010年2月撮影」
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■平家に反旗 |
豊後武士は、九州最大の荘園を持つ宇佐八幡宮を領主とする荘官兼任の武士団です。 |
荘園領主の宇佐 公通(きんみち)は豊前国守の公職も授かり、武門では平家を棟梁としていました。 |
そのため、豊後武士は、西日本で大勢力を誇った平家の御家人でもありました。 |
荘園領主の宇佐 公通は、平 清盛の娘を娶るなど平家との結びつきが、とても強かったのです。 |
しかし惟栄は、源 頼朝が鎌倉で挙兵し、 平 清盛が病死すると、平家に反旗を翻します~1181年2月~ |
豊後の知行国司: 藤原 頼輔が出した『平家追討』を、惟栄は後白河法皇院の院宣と称し追討軍を編成します。 |
反平家の理由は、元々平家の処遇に不満を持っていたうえに、荘園領主の宇佐 公通と上納米で揉めた事です。 |
平家追討に呼応した九州の武将らは、惟栄を総大将に平家の九州軍事拠点(鎮西)の大宰府探題を襲撃しました。 |
また、壇ノ浦の合戦前には、周防国で困窮した源氏軍に豊後より兵船82艘と兵糧を送り、源氏軍を助けました。
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★★★ 1183年以降、緒方 惟栄の活躍 と 時代背景を、年代式に下記に列挙してみます |
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1183年 7月・・・源 義仲によって、平家は都落ちする~
8月・・・平家は宮を、九州鎮西の大宰府に移す~ |
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10月・・・緒方 惟栄は、平家討伐の九州総大将として、平家の大宰府探題を攻め落とす。 |
~九州拠点を失った平家は、宇佐八幡社に一時避難したあと、摂津国 一の谷へ敗走~ |
1184年 1月・・・伊予の河野氏とともに、 惟栄の豊後武士らは備前(岡山)今木城に入るが、すぐに撤収。 |
2月・・・一ノ谷の戦い=源 範頼(頼朝の異母弟)の勝利。 平家は、讃岐国 屋島に敗走~ |
7月・・・緒方 惟栄は、平家が避難した宇佐八幡宮に謀反の疑いを掛けて焼き討ちをする。 |
1185年 1月・・・兵船が乏しく周防で困窮した源 範頼に対して、 惟栄は兵船82艘と兵糧を送り、助けた。 |
2月・・・葦屋浦の戦い=源 範頼を大将に 惟栄らは、平家方原田氏を破り、平家の九州退路を閉ざす。 |
2月・・・屋島の戦い=源 義経(頼朝の異母弟)が援軍参加して勝利。 平家は、長門国 壇ノ浦に敗走~ |
3月・・・壇ノ浦の戦い=源 義経が総大将で、平家に逆転し完勝する。 |
4月・・・源 範頼は九州探題に留まる。 源 義経と共に、緒方 惟栄は京に向かう。 |
5月・・・源 義経は凱旋帰郷するも、頼朝が鎌倉入りを許さず。~兄弟の仲違いが顕著になる。 |
9月・・・宇佐八幡宮焼き討ちの咎で、 惟栄の配流が決定するが、翌月には非常の恩赦が下る。 |
10月・・・義経は源 行家と共に、京で反鎌倉の組織立ち上げを目論むが、呼応する武士がない。 |
11月・・・義経と面談した緒方 惟栄は、義経への協力を誓う。また、後白河院からも協力要請があった。 |
12月3日 進退窮まった義経は、九州地頭職を強引に取り付け、九州逃避を緒方 惟栄に託す。 |
7日 九州行きの船がシケで難破し、義経・行家・惟栄らは塵尻に分散してしまう。 |
1186年11月・・・宇佐八幡宮焼き討ちの咎が再度吟味され、緒方 惟栄は上野国 沼田荘に配流される。 |
1189年 4月・・・源 義経は、奥州で自害する。
9月・・・源 頼朝により、奥州藤原氏が滅亡。 |
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1190年10月・・・源 頼朝により、緒方 惟栄の流刑に恩赦が下る。 |
1192年 源 頼朝が征夷大将軍となり、鎌倉幕府を開く。 |
1193年 頼朝は、源 範頼を幽閉~のち自害に追い込む。 |
1195年10月・・・緒方 惟栄没す~享年52歳。
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緒方 惟栄の時代背景とエピソード紹介
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■緒方 惟栄ら豊後武士の戦歴~ |
◇豊後武士は緒方 惟栄を中心に、豊後国司や荘園領主に対抗できる程に勢力を増しまた。 |
◇1183年の大宰府攻めで惟栄は、豊後と肥後を中心に武士を10万騎を集めた云われています。 |
惟栄を総大将に豊前路・日田路・肥後路の三方から攻め、惟栄は肥後路の本隊3万騎を率いました。 |
実際には三方同時攻めが出来なくて、先着した豊後武士中心の豊前路隊が攻め落としたようです。 |
(鉄腕アトム並みの10万騎は誇大です~平家には10万騎に値する恐怖があったのでしょう~) |
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◇1184年の冬、 源 範頼の平家討伐隊が周防国で、長期戦による兵糧不足に陥り、進退窮まります。 |
鎌倉に補給を要請しても、『頑張れ』のみ返事。冬で兵糧調達が出来ず、また兵船も不足してました。 |
これを聞いた惟栄は、兄の臼杵 惟隆の協力のもと、豊後から兵船82艘と兵糧を、範頼へ送り届けます。 |
このとき瀬戸内海の制海権は、未だ平家方に有りましたが、~豊後武士は対抗できる水軍があったのです。 |
◇豊後入りした範頼は、惟栄の力を借りて、葦屋浦の戦いで勝利し、平家の九州退路を完全に閉ざします。 |
◇屋島で勝利した援軍の源 義経を総大将にした壇ノ浦の戦いでは、豊後武士の水軍も参戦したようです。
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■宇佐八幡宮=倭国軍神の八幡神(15代応神天皇)を祀る~九州一の荘園を支配した~ |
◇1183年 都落ちし大宰府に宮を移した平家は、、惟栄に再度御家人となるよう嘆願書を宇佐八幡宮に託しました。 |
しかし惟栄は、時代の流れを理由に返り忠を拒否。 逆に、平家追討で大宰府に攻め込むのでした。 |
敗れた平家は、宇佐八幡宮を頼って柳ヶ浦に緊急宮を設けますが、 |
八幡宮が頼れないと知った平家には自殺者も出たため、宮を摂津国 福原に移し替えします。 |
◇翌1184年、『平家と謀反の兆し』と疑いを掛けられた宇佐八幡宮は、惟栄から焼き討ちされます。 |
この焼き討ちは、対立が激しくなった荘園領主: 宇佐 公通の殺害が目的だったとも云われています。 |
しかし、焼き討ちでは、破壊と略奪が激しく、世間から非難の的となりました。 |
源氏と関東武士の守護八幡神で、本宮の宇佐八幡を焼き討ちした咎が、惟栄に掛けられたのでした。 |
◇難を逃れた 宇佐 公通ですが、平家加担の贖罪として、源 頼朝から宇佐八幡宮の私財再建を命じられます。 |
※2010年4月1日に、応神天皇ご崩御 1700年式年大祭が行われ、県文化財の呉橋が解放されました。
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■壇ノ浦の戦い後の 義経と惟栄 |
◇1185年 戦勝で京へ向かった 惟栄は、鎌倉の頼朝から軽んじられていく 義経に義理立てします。 |
鎌倉から義経追討令が出たとき、惟栄は九州行きの船を準備して、共に乗船し逃亡幇助を企てます。 |
しかし、冬のシケで船が難破し、九州行は失敗に終わりました。 皆、八方に分散して逃亡します。 |
(もし、もしかして逃亡が成功したなら義経と惟栄で、歴史は変わっていたのかも~しれません) |
◇同船の源 行家は、捕捉され即処刑。 源 義経は奥州まで逃げ延びましたが、最後は自害します。 |
◇惟栄も捕捉されましたが、追討隊の本懐は義経追討にあるので、即処刑とはなりませんでした。 |
捕捉された惟栄には、義経の逃亡幇助罪では無く、宇佐八幡宮焼き討ちの罪が再問されました。 |
◇再吟味で、上野国(群馬県)沼田荘に流刑が決定し、惟栄は配流されます~1186年 このとき43歳。
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■焼き討ちの咎で、配流 |
◇配流は、惟栄の兄弟・親子のごく一部に限定された為、緒方家親類や臼杵の本家は残されました。 |
◇東国の上野国へ配流になった惟栄ですが、関東武士が在地する沼田荘で厚遇されていたようです。 |
源氏勝利に寄与した西国の英雄なので、沼田の姓で妻帯を許され、男児が生まれました。 |
◇配流から4年後(源 義経が自害して1年後)には、平家追討の戦功により恩赦が下ります。 |
直ぐ帰郷しなかったのは、路銀不足や幼い男児が長旅に耐えられないと考えたのでしょうか・・・・・ |
◇恩赦から5年が経って惟栄は、ようやく豊後国入り口の速見郡 山香郷まで辿り着きます。 |
しかしながら山香郷 下村の立石峠で、惟栄は病死してしまいます。~享年52歳。 |
◇惟栄は故郷の臼杵には生還できませんでしたが、沼田で生まれた男児は辿り着けたようです。 |
緒方家に残る家系図では、惟栄の子で 沼田 惟兼という名前が記されています。 |
◇云い伝えでは、惟栄が生還し、臼杵石仏など郷土文化の礎になったと伝説も残っています。 |
惟栄の病死は誠に残念ですが、その遺志は子どもら又は一族によって引き継がれたのでした。
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チリメン脱線
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◇この時代、漢字が前後した似たような名前がたくさん出てきます。~覚えにくく、非常に混乱します。 |
~義朝、頼朝、範頼、義経、義仲、忠盛、清盛、重盛、維盛、頼輔、頼経、惟基、惟盛、惟隆、惟栄~
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■源 頼朝を考える |
◇頼朝は、平家を都落ちさせた従兄弟の義仲を誅し、源平合戦で勝利した異母弟の義経・範頼も追い詰めた。 |
この非情は、どこから来ているのでしょうか? 確かに、義仲と義経の家人らは略奪の無謀をしたようですが・・・ |
◇豊後の知行国司で、後白河法皇に代わり『平家追討』を出した藤原 頼輔の息子の頼経も流刑されています。 |
藤原 頼経は、壇ノ浦の合戦後の京において、源 義経と緒方 惟栄を後白河法皇院に謁見させていました。 |
◇頼朝は、九州で平家追討に活躍した 惟栄に対して、宇佐八幡社焼き討ちの咎で配流にし豊後から遠ざけます。 |
この処分は、平家の元御家人であった豊後武士団の在地領主に惟栄を残すと、災いになると恐れたのでしょう。 |
義経逃亡の幇助未遂罪では、配流まで咎められなかったと、思われます。 |
また、幕府は豊後国を直接管理する関東御分国にして、関東武士の知行恩賞地としても残したかったようです。 |
最終的には、頼朝の庶子と噂されるほど溺愛した~大友 能直を鎮西奉行と豊後・肥後の守護に任命します。 |
◇能直は豊後大友氏の開祖で、子孫は守護大名となり、戦国時代にはキリシタン大名:宗麟を輩出しました。 |
当時の知行国主と同様に、大友 能直は鎌倉に留まったまま、守護代目として家臣を豊後に下向させます。
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■鎌倉時代の豊後武士は? |
◇幕府処遇に不満を持つ豊後武士らは、大友氏の守護代目との間で、暫く小競り合いが続いたようです。 |
しかし、1221年承久の乱が、幕府統治のため、御家人を全国の守護や地頭に任命する切欠となりました。 |
◇大友家3代目のとき北条氏の幕府執権となり、鎌倉の大友氏一族郎党が豊後守護として入部していきます。 |
そして次第に、豊後武士らは大友一族の家臣・家人として下臣していき、歴史の表舞台から遠ざかります。 |
大友氏と同様に鎌倉御家人からは、北部九州に少弐氏が、南九州には島津氏が入部していきます~ |
◇ここ杵築には大友氏のなかで、大友二代目六男の大友 親重(ちかしげ)が、木付荘7000石に入部します。 |
親重は、守江竹ノ尾に武者所を築城し、姓を大友から木付と変えます。~1250年のことです。 |
杵築城の前身となる竹ノ尾の武者所は、平家残党や平家寄りした宇佐八幡宮を牽制するための城です。 |
木付氏は、氏祖の親重の代から17代 344年間にわたり、江戸時代直前まで繁栄しました。
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■後白河法皇院の策略
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◇藤原氏の貴族摂政から自らの強権奪取を目論み、多くの権力争いで巧みな策略を講じます。 |
台頭してきた武家武力を利用し、天皇を78代に譲位したあとも五代34間年にわたり院生を敷きました。 |
◇緒方 惟栄は、法皇院と源氏の確執に巻き込まれなければ、もっと歴史で活躍したかも知れません。 |
時流を読んで割り切った行動をしていた惟栄でしたが、最後は義理人情で失脚したような気がします。
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現在の緒方 三郎 惟栄を偲ぶ史跡など
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■館跡(緒方神社) |
◇館跡は、豊後大野市 緒方町 上自在の『三郎』交差点近く、県道 502号線沿いの平坦地に在りました。 |
館跡には、史跡記念塔と緒方神社が建立されました。(現在、神社は無く鳥居のみが残っています)
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(下の写真中央に在る史跡記念塔は、1937年(昭和12年)5月27日の海軍記念日に建立されたものです)
(史跡記念塔の碑文)
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1980年には緒方神社跡地で、 惟栄の生誕800年祭が行われ、全国の緒方さんが集まり供養されました。 |
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館跡近くの緒方川に掛かる橋の名が、『三郎 大橋』です
~地元皆さまの郷土英雄の誇りを感じられますね。
「上記の写真4枚は、2010年2月撮影」
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■三社川越祭り |
◇三郎 惟栄は、宇佐八幡宮を焼き討ちした後に、居住する緒方荘に八幡社を三社建立しました。 |
弓の名手だった惟栄が三本の矢を放ち、それぞれの矢が着地した場所に社を建てたと云われています。 |
一番矢が一ノ宮で仲哀天皇、二番矢が二ノ宮で応神天皇、三番矢が三ノ宮で神巧皇后を祀ります。 |
◇祭りは年に一回、一ノ宮(父)と三ノ宮(母)のお神輿が、二ノ宮(子)へ行き、親子三人の集いを祝う祭りです。 |
三ノ宮だけが川向こうに在るため、三ノ宮のお神輿は緒方川を渡ります~川越え祭りの由来です。 |
現在も、橋が無かった昔の伝統どおりに、フンドシ姿の凛々しい担い手がお神輿を担いで川越えします。 |
郷土の英雄も偲ぶ祭りは毎年11月下旬頃の寒い夜に行われ、800年以上の伝統があるそうです。 |
惟栄も合祀された二ノ宮八幡は、毎年4月に行われるチューリップ・フェスタ会場の原尻の滝に近くに在ります。
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◇原尻の滝は、東洋のナイアガラと呼ばれ、滝幅120m 落差20mあり、日本の滝100選に選ばれています。 |
また 周辺には、国の史跡指定で平安時代後期に作成された、宮迫石仏など磨崖仏が数多く点在しています。 |
◇原尻の滝上流500mには灌漑水路口があり、8世紀の条理水田に整った井路は、今も緒方平野を潤しています。 |
水田や住宅地にも、緒方井路が縦横に流れ、たくさん在る水車が緒方町のシンボルとなっています。
住宅地に在る水車 (2010年2月撮影)
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■旧・大分県社に建つ記念碑 |
◇豊後武士その弐★末尾で、お伝えしたように、大分市上野丘の弥栄神社の境内に記念碑が在ります。 |
記念碑はご子孫が建立されたもので、碑文にはルーツから三郎 惟栄の活躍などが漢文調で記されています。 |
(2009年9月撮影)
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■最後に |
◇豊後武士は、遡ること約 1000年前の大神 惟基(これもと)から起こり、その子孫は37姓に及びます。 |
豊後武士の姓は地名から採用され、その姓や地名は大分市以南を中心に今も多く残っています。 |
◇俳優の故・緒形 拳さんは、緒方 惟栄が先祖として豊後大野市を訪れていたと聞いたことが有ります。 |
緒方 惟栄の肖像画は在りませんが、きっと緒形 拳さんに似た渋い男前の武将だったと推測されます。 |
◇武家政治へ変わる激動を駆け抜けた豊後の英雄~緒方 惟栄の生涯を是非ドラマ化して欲しいものです。 |