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ルイス・デ・アルメイダ 1525年生~1583年没 ポルトガル商人であったが、日本で宣教師となる。 西洋医療を施す日本初のホスピタル創始者。 『病を治し、心を癒す』献身的な医療を実践した。 西洋医術発祥記念像 (中央の治療を施す人物が、アルメイダ)
写真撮影日:2009年 6月22日
ルイス・デ・アルメイダのご紹介 22歳で、外科医師の免許を取得する。 翌年には、貿易商人としてポルトガル領のインド・ゴアへ渡る。 ゴアで成功する傍ら、宣教師の話で、日本に興味をいだく。 ザビエル来日3年後の1552年平戸に上陸~このとき、27歳。 ザビエル後任者:トーレス神父と山口で面談し、戦乱の現状を知り憂う。 その後も、日本とマカオ間での貿易を繰り返し、莫大な富を得る。 その富の一部をイエズス会へ継続して寄進する。 30歳のとき、貿易取引のため豊後国府内(現:大分市)に入る。 ここでも悲惨な貧者の暮らしぶりを見聞して、非常に憂いました。 彼は、府内で社会正義の救済事業を行うことを決意しました。。 大友 義鎮(のち宗麟)に具申して、府内に土地を譲り受けました。 アルメイダは私財で、慈善事業のひとつ:孤児院を建てたのである。 31歳で商人を辞め、イエズス会に入り正規の修道士となる。 修道中も貿易投資は継続し、利益は社会正義の事業につぎ込みました。 1557年には孤児院の隣に、私財で総合病院ホスピタルを併設する。 日本初のホスピタルで、『病を治し、心を癒す』西洋医療の先駆けです。 医薬品は輸入で賄い、治療費も含めて全て無料としました。 自ら医師として患者の治療に当たり、医学校を造り教育・指導も行います。 これら事業の運営も兼ねて、キリスト教徒による互助会組織を作りました。 42歳からは、トーレス神父の指示で、九州内の布教困難地を回り始めます。 彼は布教も兼ねて、各地に孤児院や病院を建て、西洋医療を施します。 また、長崎では教会を建てました。 54歳のときゴアに行き、司祭に叙品されます。 しかし、彼は直ぐに長崎へ戻り、長崎を活動拠点としました。 そのため、長崎港は南蛮貿易の中心港として栄え発展していきます。 宣教・往診先の天草で死去~享年58歳。 影響力 20代半ばで成功し、母国に帰れば平穏で安泰な生活があったでしょうに・・・ 日本の貧者の生活に驚愕した彼の正義感が、許さなかったのでしょうか。 彼が日本で孤児院を造る要因は、悲惨すぎて、ここでは書けません・・・・ 人間愛と共に日本や日本人が大好きになったとしか言い様がありません。 一方、ザビエルとは行き違いになりましたが、 トーレス神父との出会いが、アルメイダの人生を決定したと思います。 イエズス会の理念と彼の魂が、異国の地で共鳴したのではないでしょうか。 それにしても、大分で12年~延べ30年近くも日本で医療奉仕を続けます。 彼は病院に外来できない患者のもとへは、往診で治療にも当たりました。 名医の声高く、大名にも往診しています。 (富者からは治療費を頂いたかも~) 府内ホスピタルの病床は100を越えていたと言われています。 死の近い患者には、心の安らぎや癒しを与えたと言われています。 彼を慕い、日本中から若者が集まり、先進の西洋医療を学びました。 アルメイダの精神が引き継がれて、1969年に総合病院が建てられました。 その病院は、「人間愛の精神」に基づく6つの基本方針を掲げています。 その名は、大分市医師会会員による『アルメイダ病院』です。 文責:チリメン「間違っていたらゴメンナサイ」
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