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全区画温泉付!別府湾を望む、海辺のスローライフ。別荘、定住どちらも楽しめます。
奈良時代 清麻呂さまが 大隅国へ配流された 謎 【 噌󠄀 の 国 】 皇族の存続を守った 奈良時代の官僚:和気 清麻呂さまシリーズの延長です。 清麻呂さまが、大隅に配流された謎について、歴史調査を継続しています。 前編投稿で、『豊前の秦氏一族が大隅へ移住?』と予告しておりましたが、 勝手ながら今回はパスさせて頂き、次回投稿にスライド変更申し上げます。 秦氏一族の調査前に、 先住の『隼人族』の調査が、配流解明の順序かと思い直した次第です。 隼人への思い入れが炸裂するチリメン報告に、暫く お付き合い下さいませ。 チリメンの妄想 < 噌󠄀 の 国 > その昔、九州の南部に 噌󠄀(そ)と呼ばれた国が在ったと 想像して下さい。 噌󠄀の国土は、痩せたシラス土壌で覆われ、稲作に不適で農耕が困難です。 人々は生き残る為、集落を小さく分散し農地を共有する共生を選びました。 縄文時代の噌󠄀の集落イメージ 霧島市国分上野原縄文の森 上野原縄文遺跡(2017年 7月撮影) ロイヤルシティ霧島妙見台から 約 22km ロイヤルシティ別府湾杵築リゾートから約 350km 噌󠄀の人々が平穏な共同生活をしていると、 ヤマトと云う恐ろしい武力集団が現れて、 「わてら、ごっつ強よ おます。おとろしかったら 律令税払ろてんか」 と、脅して来ます。 助け合う噌󠄀の人々にとって、ヤマト税の取り立ては厳しく大きな負担です。 税に窮した集落が各地で暴動を起こしますが、全てヤマトが制圧しました。 ヤマトは、課税と治安強化の為に、噌󠄀の国を三分割して国府を設置します。 各国府に国司が来て律令を強制するので、噌󠄀の互助社会は崩壊寸前です。 つ い に 、 不満が爆発した噌󠄀の人々が、反ヤマトに立ち上がり、 大隅国府を焼き討ちする と云う 大きな反乱を起こしました。 すぐさま ヤマトは、九州の北部で15,000余の兵を集めて南下し、 2方向から日向と大隅に攻め入ります。 かたや 噌󠄀の人々は、日向と大隅に在った 七つの城で迎え撃ち、 ヤマトの攻撃に激しく抵抗しました。 し か し、 一年半にも及んぶ攻防は、 ヤマトの武力が勝り、反乱は完全に制圧されて終いました。 噌󠄀の山城のひとつ 姫城の山城跡 霧島市隼人町姫城~山全体が砦 (2018年 7月撮影) ロイヤルシティ霧島妙見台から 約 8km ロイヤルシティ別府湾杵築リゾートから約 341km 大隅国府は、姫城から1.5km南のJR国分駅近くの国分府中町に在ったとされています。 噌󠄀 の 神体山 尾牟礼山(おむれいやま) と 止上(とがみ)神社 霧島市国分重久町 (2017年 6月撮影) ロイヤルシティ霧島妙見台から 約 8.6km ロイヤルシティ別府湾杵築リゾートから約 342km 鳥居後方の 尾牟礼山が、噌󠄀の人々が崇拝した ご神体山だそうです。 隼人の乱のとき、この地も激戦地だったと、地元の方から聞きました。 社伝によれば、1600年頃まで「王の御幸」祭が行われていたらしい。 <チリメン 考察> 反ヤマトの乱に加担した噌󠄀の人は、民衆を含んで5,000人程とされ、 戦没や捕虜となった噌󠄀の人は、1,400人を超えたと伝えられています。 ▲奈良時代の日本の人口が、600万人前後とも考えられていますので、 現在の人口から逆算すると、1,400人は 凡そ 29,000人に匹敵します。 隼人塚 霧島市隼人町見次 (2018年 4月撮影) ロイヤルシティ霧島妙見台から 約 1 0km ロイヤルシティ別府湾杵築リゾートから約 338km 突然ですが、立場をヤマト王権に変えて チリメンの妄想 噌󠄀 改め < 日 向 の 国 > ここから先は、「噌󠄀の人」を『隼人』に置き換えて お読み下さい。 その昔、九州の南部に 噌󠄀(そ)と呼ばれた国が在ったと想像して下さい。 噌󠄀の国は山野が多く、稲作や農耕に適さず、税(調)額は高が知れていた。 噌󠄀の人は、ヤマトに従わず、税は納めず、直ぐ反発して暴動を起こす。 ヤマトにとって労多く、扱いにくい先住の噌󠄀の人が住む遠い国。 でも、 ヤマトは、 絶対、 王権下に従属させたい、 欲しい。 理由は、大陸と直接交流が出来る海路が大至急、欲しい から。 400年以上続いた半島交流や半島経由の大陸交易が難しくなってきたので~ 西暦 562年 任那日本府の滅亡 西暦 663年 白村江の戦いで大敗 唐・新羅軍 vs 倭・百済軍 半島の交易拠点を失ったヤマト王権は考えました。 九州の北部海路を修復するよりも、九州の南部海路を手中にした方が早い。 大陸海路を知る噌󠄀の海人を配下にすれば、大陸人脈も利用出来て安上がり。 ふ ふ ふ 、 ほ ほ ほ 。 ヤマト王権は、 半島からの九州防衛には、税の代わりに全国から徴兵した防人を置いて、 噌󠄀の国に対して、次々と布石を打ちます。 ヤマト律令の指導係として、九州北部の豊前から180人を噌󠄀に派遣させる 西暦 699年 大宰府直轄の軍事拠点の城を、噌󠄀の要衝地に築城する 西暦 702年 律令の行政執行で、 噌󠄀の国から 唱更(薩摩)国を分割する 西暦 713年 同じく強制執行で、 噌󠄀の国から更に大隅国を分割する 噌󠄀を三国に分けて、 九州北部から移住者を入植させる 西暦 720年 大隅の隼人の乱に対して、鎮圧軍を直ぐに派兵する 鎮圧軍の総大将:征隼人大将軍は、歌人で有名な 大伴 旅人(たびと) 10,000人を超える主力軍は、大宰府を南下して、大隅の西から攻めた。 もうひとつ豊前を出発した別働軍は、日向と大隅を東から攻め入った。 この東ルート 5,400兵のセンターを務めたのが、宇佐八幡の義勇兵であった。 豊前宇佐の義勇兵は、戦勝祈願を念じた八幡神を神輿に乗せて出兵した。 武功により、地方神だった八幡(やわた)の神が全国に知れ渡り、 神仏習合して仏教読みの八幡(ハチマン)と称し、『八幡大菩薩』と成る。 鹿児島神宮 (正八幡宮) 霧島市隼人町内 (2017年 10月撮影) ロイヤルシティ霧島妙見台から 約 8km ロイヤルシティ別府湾杵築リゾートから約 336km 大隅国 鹿児島郡に在った大隅国の一之宮社 ヤマト王権は、噌󠄀の人を律令で公民化させる同化の柔軟策として、 【古事記や日本書紀】 ☆ 隼人征伐の史実は、噌󠄀の『熊襲征伐』の神話で伝承した ☆ ヤマト王権の地縁血縁を強調した 霧島の高千穂峰の『天孫降臨』 海幸彦と山幸彦の兄弟喧嘩 神武天皇の誕生と「東征」 ☆ 噌󠄀の国を、景行天皇の巡幸により、『日向(ひむか)』と国名を改めた ☆ 熊襲 武を暗殺した 日本 武尊は、『武』の名を頂戴して襲名した 天孫降臨 霧島高千穂リゾートランドから見た 高千穂峰(たかちほのみね) 霧島市霧島大窪 = 旧:姶良郡 東曾村 (2015年 10月撮影) ロイヤルシティ別府湾杵築リゾートから約 266km 秋の日没山頂に、翼を広げた鷲形の日が差し込んで、天孫の降臨が再び始まる・・のかな 熊襲穴 霧島市隼人町嘉例川 (2017年 7月撮影) ロイヤルシティ霧島妙見台から 約 8.5km ロイヤルシティ別府湾杵築リゾートから約 342km 神話で、熊襲が、ヤマトに抵抗して籠った洞窟穴。 日本 武尊 が女装して洞窟に入り、熊襲 武 を討ったとされる。 ( ヤマト タケル ノミコト ) 【ヤマトの国策優遇】 ☆ 噌󠄀の国で従属が早かった地域の隼人には、京の警備など職を与えた ☆ 隼人の乱のあと、上京朝貢した隼人の族長に、官位を授け禄も与えた ☆ 豊前から入植させて、農業改革に取り組ませ、ヤマト律令の浸透を図った <チリメン 考察>・・・『熊襲』 噌󠄀の人が勇猛果敢に最後まで戦うので、ヤマトの兵は非常に畏れた。 恐ろしいほど強い畏敬の『熊』を付けて『噌󠄀』の人を称えました。 ↓ ↓ くま そ ※熊本の『熊』も同じ意味で、1607年までは 隈本 と呼ばれていたり・・ 蝉の中でもクマゼミは、体が大きく、恐ろしく力が強い・・ですよ・ね 山神橋 バス停 宮崎県 都城市吉之元町 (2018年 1月撮影) ロイヤルシティ別府湾杵築リゾートから約 302km 噌󠄀の国で昔、海幸彦と山幸彦の兄弟喧嘩の神話を連想させるバス停名ですね。 進行方向が海幸彦が住んでた?霧島市内へ、反対が山幸彦が住んでた?都城市街。 大乱で荒廃した大隅国に、入植してきた 九州北部:豊前の秦氏一族~ 反ヤマトの先住民が居る大隅国に配流された 元官僚の 和気 清麻呂さま・・ 次回の投稿こそ、 秦氏と清麻呂さまとの関係について、歴史調査を してみまする~ 文責:チリメン 「間違ってたら、ごめんなさい」 都城市の西にそびえる 高千穂峰 「冠雪が神々しい!」 宮崎県 都城市金田町あたり (2018年 1月撮影) ロイヤルシティ別府湾杵築リゾートから約 280km
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こばやし
岡山出身の美味しいものが大好きな食いしん坊です。よろしくお願いいたします。
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所在地:大分県杵築市大字熊野字梶浜857-70
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