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スタッフからの現地便り

『オーナー日記』 ver.1 ~日当たりが良いとこで花を育てたかった~

  • 更新日:2011年11月07日
  • カテゴリ:オーナー日記2


①写真説明(撮影日平成23年10月31日):
色づいてきたマジカル・ミラクルのローズヒップ(バラの実)。実も鑑賞できるバラというのが売りで(ふつう花ガラは切り落とす)、病虫害に強く、手のかからないブッシュ系の強健種。これは赤花だが、他にピンクがあってそっちはマジカル・ミステリー。それにしても、もう少し趣のある名前は考えつかなかったのかねえ。


ver.1  ~日当たりが良いとこで花を育てたかった~

 初回なんで、ちっとばかし長くなるけどてめえのことをひとつ…。ワタシ、東京は墨田区って下町の生まれ育ちなんです。
 いまでこそスカイツリーで全国的に有名になっちまったけど、当時はゼロメートル地帯なんて言われてて、町中しょっちゅう水浸しになってた。
 台風が来るたんびに家族で畳上げたりしてね。ひとりで梅若正二の赤胴鈴之助をみて映画館から出たら大雨で道路が川になってて、下駄脱いでパンツまで濡らして帰ったこともあります。

 すぐ近所に「五十番」ってラーメン屋があって、公園で野球やってたそこのおにいちゃんがのちの王選手。
 しょっちゅう少女雑誌の表紙になって、長じて大橋巨泉夫人になった浅野寿々子ちゃんちもすぐそばで、あの子はお嬢さんだから私立の小学校だったけど、同学年だった。
 いえね、そういう方達と特別に親しかったわけではないですよ。
ま、そういう時代のそういう町だったってことです。
 
 
 赤胴鈴之助が好きだったくらいだから、枕元に木刀がわりの棒っきれ置いて寝たり、風呂敷首に巻いて月光仮面ごっこしたり、まあ普通のガキでしたが、その反面で移りゆく花の色にあはれを感じるようなませたガキでもあったのですな、これが。
 進学した区立中学は、個人商店や町工場の子がほとんどで、両国が近い土地柄、クラスに何人か相撲部屋から通ってくる子もいました。

 で、ワタシの趣味はなんと花つくりですよ。
とくにバラに夢中で、春秋のシーズンには都内のめぼしいバラ園をしらみつぶしに見て回った。
 サカタのカタログなんぞ取り寄せて、小遣い貯めてちまちまと苗を買った。ところがですよ、カタログ写真のような花がぜんぜん咲かないんです。

 あの頃の下町のせせっこましい、隣と隣がくっつき合って間を猫も通れないくらいに立て込んじまってるちゃちな家並み、住んだことのない人はわからんでしょうなあ。
 庭なんてハナからないからみんな鉢植えなんだけど、こいつを狭い路地に並べたってろくに育たねえんですよ。
 苗も、当時主流だった枝接ぎ苗じゃなくて、活着のいいと言われる芽接ぎ苗(ちいっと高い)を圃場まで出かけていって直接買ったり、施肥や消毒など園芸書読み込んでクソ丁寧にやってるのに、良くてひとつふたつ花が咲くくらいで、蕾ごと枯れたり、下手すりゃ蕾も付けねえまま枯れる。要は日が当たらねえからなんです。

 そもそもそこら辺にとりあえず元気に育ってるのは、オモトかヤツデか、はたまたコケかってなもんで。
 縁日で魔が刺して朝顔鉢買ってきたって早晩枯れちまう。
で、あはれ少年は、日曜日なんかに軒と軒との細長い空から通ってくるわずかな陽射しを追ってこまめに鉢を移動したりするんですが、切なくも無駄な抵抗、てなわけです。
 
 しかし、というかだからこそというか、花作りに対する執着はだんだん強くなりまして、進学の時は都立で一校だけ園芸科があった高校を密かに希望していたんだけど、素直な少年でしたから「高校は普通科に行って園芸は大学でやればよい」という周囲の勧めに、そんなものかなと、ほとんど口答えもせず従ったのでありました。

 で、進学した某都立高校は、芥川龍之介、堀辰雄、立原道造、下っては半村良などという小説家や詩人を輩出した学校で、文学に対する思い入れというか、そういう風土が醸成されている小宇宙だったんです。
 ここに来てその環境のなかで、少年は自分本来の浪漫的資質に目覚めた…。と言うか、ま、ほらよくあるじゃないですか、学年が上がるにつれ、どうも理数系が伸び悩んでやむなく文科系にシフトっていうケース。
 ワタシ、それだったのですよ。園芸科ってのはなんと、農学部の下部にあって、つまり理系なんですな。この頃ですかね、自分の進路ってのも自分が勝手に決められるんじゃなくて、いろいろ複合的な要素の絡み合いで決まっていくもんだなあと、漠然と意識し始めたのは。
 
 こうべをめぐらすと学校は思ひ出のはるかにメダルの浮き彫りのように輝いている…と、大分市出身の詩人・丸山薫が切なく詠っています。
 
とある窓辺で誰かが他所見(よそみ)して
あのときの僕のやうに呆然(ぼんやり)こちらを眺めてゐる
彼の瞳に僕のゐる所は映らないのだらうか
ああ 僕からはこんなにはっきり見えるのに
(「学校遠望」 より)
 
 確かに、昔は見えなかったのに今になればはっきり見えるってもんが結構ありますよね。あそこならあっちの道がいいのに、バカだなあ、なんでわからないんだよおまえ、って…。
 そう言えば、小さい頃やりませんでした? 裏が白い広告の紙を細長く切って、糊で貼り付けてつないで巻物みたいにして、端からあみだくじみたいに枝分かれした道を描いていって、指でたどって行き止まらずに最後まで行ったら勝ち、みたいな遊び。
 右も左も行ってみる、ってわけにはいかない。ある程度大人になると、毎日のように決心しながら生きてくんですな。選ばれる道があれば、捨てられる道もあるわけで、とにかくそこでは峠みたいに決定を強いられるんですよね。
 
峠は決定をしいるところだ。
(中略)
風景はそこで綴じあっているが
ひとつをうしなうことなしに
別個の風景にはいってゆけない。
(中略)
たとえ行手がきまっていても
ひとはそこで
ひとつの世界にわかれねばならぬ。
真壁仁 「峠」 より)
 
 それやこれやで園芸科を諦めて、どうせ文系なら実務的に役に立ちそうな商学部と進路を決めたんだけど、高校時代の文学重視風土に感化されたのか、大学に入ってから、昨今流行の言葉だとちっとウツになっちゃいましてね。
 一人でいるのは寂しいけれど二人でいたらなお寂しい、ってな調子。

 理解は常にある程度は不可避的に誤解だ、なんて、意思の疎通や心の交流の限界に病的に過敏になって、たとえば伝達の手段であるコトバが精緻になればなるほどコミュニケーションも完璧に近づくはずだと百科事典を「あ」から読み始めたり、日本語は論理性に欠陥があるんじゃないかといろんな外国語を片っ端から調べたり、いやコトバはいずれ不立文字、真実は言語では伝えるべくもない、いやいや、話してもわからないかもしれないが話さなければわかりようがないじゃん…等々。

 若い頃って、なんかこういうどうしようもない、というかどうでもいいことで悩むじゃないですか。
 たいていは流行り風邪みたいに、しばらくすると卒業しちまうんだけど、ワタシの場合はこいつがちっとばかりしつこかったんですね。僚友みたいにうまく脱皮できず、古い殻を引きずって歩いていた。

 おりしも、不毛な学生運動吹き荒れ教室も軒並み閉鎖に至った1969年、こんな非生産的な連中と無駄にする時間はないと大学を1年休学、実存主義哲学者キルケゴールがどうやってその苦悩を克服したのか知りたいとデンマークの国際学校へ留学したのであります。海外渡航が自由化されてからまもなくのことで、持ち出し外貨は500ドルが限度だったけど、ドル360円の時代で、2年間家庭教師で貯めた軍資金は400ドルに満たなかった。

 幸いにも奨学金を戴き、おりおりに皿洗いや道路工事などもして1年間で論文を書き上げ、ウツに自分なりの終止符を打ってケリをつけた。その後、日本の大学に戻り後期2年を終えたが、卒業直前くだんのデンマークの学校から臨時講師の招聘を受け、またまた大学を1年休学して2度目の海外へ。

  2回目のデンマークは当初1年間の委嘱だったが、帰国したらサラリーマン生活が始まり簡単には自由な時間が取れなくなると気づいて半年で辞し、夏の2ヶ月をスイスで暮らしたあと、次の4ヶ月を南仏の全寮制フランス語学校で過ごした。

 かような調子で6年間の大学生生活(なんせ授業料が1ヶ月1万円なんで、12万円払えば1年休学できた)を終え、1973年、ひねた新卒ながらやっと一人前の社会人になりました。就職した会社では寺島実郎と同期で、彼も同じく6年大学にいたってのにワタシと違って院卒だったんで、初任給から差があったのを憶えてます。
 
 花や樹木に対する思い入れと言うか、一種のロマンはずうっと持ってたんで、はじめはカナダの森林を植林開発して木材を輸入するっていう専門商社を希望したんですよ。木材業界はその頃もう斜陽になってただけど。

 そしたら、そこの採用担当が「キミは飽きっぽそうだからいろんな商材を扱う総合商社のほうがいいんじゃないの」と、なんとも憎い断り方をしてくれましてね。おかげで、総合商社マンとしての人生が始まった。

 ところが、オイラ英語は完璧なんだぜという自己宣伝にもかかわらずそっちのほうからはお呼びがなく、フランス語ができる奴が払底してるってんで、おいおまえ、といきなり送られたところがアルジェリア。
 ここを皮切りに、のべ1年以上の長期にわたって出張・滞在したのが、スペイン、インドネシア、モロッコ。現地駐在として常勤したのが、ロンドン、ニューヨーク、シンガポール。一、二週間そこらの出張だと、アジア・旧東西欧州のほぼすべてに行きましたね。

 ま、個人的に遊びで行ったところも少なくないけど。行ってないのは、カリブを除く中南米諸国、アルジェリア・モロッコ・エジプトを除くアフリカ諸国と中東諸国かな。もちろんあいだあいだで日本に帰ってたけど、どういうめぐり合わせかいつだって東京。

 地方勤務はゼロ。こういうの珍しいんです。で、最終勤務地シンガポールでのミッションが終わって、またぞろ東京に戻るくらいなら早期退職しちまえと、あっちこっち候補地を物色しはじめたんです。

 だって、墨田区押上から渋谷、世田谷と引越しはしたけど、生まれてこのかた、海外を除いたらずうっと東京。もう食傷ですよ。
 どこいったって人でいっぱい。道路はいつも渋滞。物価は高いし空気は汚い。満員通勤電車もストレスいっぱいで憎悪してました。
 
 でもなにより、東京っていうと、原風景的にあの暗くてじめっとした路地に置いてあるコケの生えた植木鉢なんかを思い出しちゃうわけです。

 そんなわけで、じつはガキの頃から、とにかく日当たりと風通しがいい広い場所で、元気な花々をいっぱい育ててみたいと思ってたんですよ。潜在的で、かつほとんど強迫的な欲求。こいつが重低音みたいにどっかで何十年も鳴り響いていたんじゃないかなあ。
 
 ところで、さっきガキの頃やりませんでしたかって訊いた、分かれ道遊びの話。ひとつの道を選ぶってのはもうひとつの道を捨てるってことなんだけど、あとでもう1回選びなおすってことも時には出来るんですねえ。

 いい年こいて今更なんですが、はっきり自覚した初恋ってえのは大学1年の時なんです。相手は高校1年生。福永武彦の「海市」を地で行く、東京・広島の遠距離恋愛。当時はメールどころか電話さえろくにかけられなくて、往復1週間の手紙が唯一の交情手段。おまけに昔の若者のこととて不器用な二人は、好きという単純な言葉さえ諧謔の衣にまぶしたりして遠まわしに弄ぶばかり。

 知りあってからの6年間で実際に会えたのは、最初の出会いを入れてわずかに4度。時間と空間の両方に阻まれたまま、お互いの小径は交わることなく離れていって、それぞれに別の配偶者を選んだ。ところがそれから20年余りの時間が別々に過ぎたある日、お互いに自分の家庭で居場所がなくなった状態で、ゆくりなくも再会。以来紆余曲折を経て、つまりは最初の決断から30年余を超えて、その時には行かなかった道を、ワタシら、あらためて選び直すことができたんですよ。そして、この杵築リゾートをふたりの終の棲家として定め、6年前にシンガポールから移り住んだという次第であります。
 
夢見たものは ひとつの愛
ねがったものは ひとつの幸福
それらはすべてここに ある と
(立原道造 「優しき歌II 夢見たものは…」 より)




②写真説明(撮影日平成23年5月11日):
①の写真と同じくマジカル・ミラクル。花が咲いているときはこんな感じ。


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